時森 ししん

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時森 ししんさんの新着日記

2019/03/11 23:59:56
3月11日…あの日から8年…心に沁みる雨が降る。
2011年3月11日午後2時46分。

斉藤健企画室長達と打ち合わせをしていた時、グラグラ来たが、いつもより大きくて少し驚ろく。

なかなか収まらない揺れに対して、ダイバーシティメディアの3階役員フロアで、当時の高橋文夫社長と斉藤健経営企画室長、桜井朋花係長、冨樫和香子職員と一緒に身を竦ませていた。

桜井朋花係長は妊娠中でお腹も大きかったので、自分は「床にお尻を着けて直接座って!」と言って、フロアの床に座らせ安定させた記憶がある。

高橋文夫社長は、当時は83歳。
「次第に収まるから…。」と言っていた。
しかし、一向に収まらない揺れに「長いな…。これは大変だ!」と顔がこわばったのであった。

揺れが収まったところで、続く余震の中、1階まで、みんなで階段を降りたのである。

全社員が、会社の前の駐車場に出て、停電になったロビーを基地にして、情報を集めた。

急に冷え出し雪がチラついてきて、車の移動中に、車内のテレビやラジオで情報を収集する。



2019年3月11日…今日、ダイバーシティメディアでは、震災が発生した同じ時間に、全社員黙祷を捧げる。

その時の女川町の海は、鏡のような水面であったと、ダイバーシティメディアの取材班は写真を送ってくれる。



8年前の2011年3月11日の夜。

東京に出張していた笹原専務達から送られてきた、その夜の東京駅の様子。

笹原専務は、電車が全面運休の為、夜通し羽田空港まで歩いたのである。



当日、ケーブルテレビ山形(ダイバーシティメディアの前身)の各部署の責任者達は、自家発電を使い、停電の復旧を待ち、ケーブルテレビのシステム再開や放送と通信の早期回復の準備をする。



ムービーオンも、映写機が停電の為ダウンしたので、復旧の為、数人のスタッフが泊まり込む。



その日の夜中の山形県庁。
全ての部署が動いていた。



自宅に戻ると、弟の家族も来ていた。
食事はコンビニのオニギリやパンなど。

この日、母親だけが仙台市へ出かけており、連絡がつかなかった。
しかし、必ずどこかの避難所に駆け込んでいると、自分には何故か確信があった。



2011年3月12日、翌日の各紙の新聞。

改めて、この地震の凄さに驚き、悲惨な状況を把握できた。



スタッフの後藤義裕君と、松田昌一監査役と、数人で、弟の和武が準備したオニギリ数百個と、ペットボトル数箱を持ち、仙台市の避難所へ届けに行く。

道もまだ整備されていない中、被災者にすぐ食事を運んだのであった。



ケーブルテレビ山形では、24時間の生放送を開始し、生活情報や被災情報をお伝えし、行政からのお知らせも、遅延なく行った。



当時の宮城県の状況。


自分とスタッフ武田君と後藤君が、名取市に行った時の様子。



しばくして、母の実家の叔母から送られてきた、母親の生家である女川町の出島が津波に飲み込まれる瞬間の写真。



今日、ダイバーシティメディア制作局の取材班は、女川町を訪ねていた。

山形も、宮城県同様に雨。
雨は涙雨なのか、心に沁みる…。



女川町では、追悼式が行われたそうである。

誰1人として、あの日あの時あの時間、あんなにも突然に、天地が引き裂かれるような出来事が起こるとは思わなかっただろう。

あんなにも、悲しく取り返しのつかない出来事が起こるとは予測できなかった。

あまりの惨劇であり悲劇である無慈悲の3月11日を、自分たちはどう迎えていいのか、まだ分からないし、答えはいつまでも出ないと思う。


ただ言えることは、あの日の失ったものを静かに思い出しながら、心から安寧に葬ること。
そして、それを大切に認め受けとめること。
周囲の人たちを見渡し、優しく接すること。


きっと、そんなことしかできないのかもしれない。

実家や親戚や友人を、70歳を超えて失くした母親は、時々、実家のことを話す。
前を向こうとしている姿は胸が痛むが、優しい言葉は見つからない。
ただ聴くだけである。


そんな8年が過ぎた。
今日は雨。
心に沁みる雨である。


人生の中の、思いもよらない事件や事故や天変地異。

それを乗り越える為には、肩を寄せ合って、日々を生きて行くことなのかもしれない…。


8年間、ご尽力賜った多くの方々へ敬意と感謝を送ると共に、お亡くなりになった方々へ心より哀悼の意を捧げたい。

合掌。


元記事:https://ameblo.jp/stokimori/entry-12446044566.html

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